(さわ) 穂希(ほまれ) (38)

 1978年、東京都府中市生まれ。6歳の時、兄の所属するサッカークラブでボールを蹴ったことが、サッカーとの出会い。小学2年生の時、地元の少年サッカークラブに入団。試合でいきなりゴールを決めるなど、はじめから目立つ存在だったが、年上の男子と練習し、彼らに負けまいと努力を重ねていたことが技術向上につながり、注目されていく。1991年、中学入学と同時に、誕生間もない日本女子サッカーリーグの「読売サッカークラブ女子ベレーザ」に入団。日本代表選手の多くが所属していた強豪チームで、監督に見込まれ中学生にも 関わらず、トップチームに籍を置いた。他の選手と同じようにプレーできないことが悔しく、毎日のように居残り練習。ますます力をつけていった。
 1993年、15歳で日本女子代表に初招集され、デビュー戦で4得点。以降、20年以上にわたって第一線で輝き続け、2015年に開催されたFIFA女子ワールドカップ・カナダ大会に出場したことで、男女を通じて世界初となる“ワールドカップ6大会連続出場”や、日本サッカー史上においても男女を通じて初となる “国際Aマッチ205試合出場、83得点”など、偉大な記録を打ち立てた。
 日本の女子サッカー選手のトップを走り続けてきたが、順風満帆なサッカー人生だったわけではない。デビュー当時の女子代表は、遠征費の半額負担や遠征先での大部屋雑魚寝が当たり前で、クラブチームでも、昼間働いて夜練習する人が多かった。1990年代後半、景気低迷から企業は女子リーグのチームから撤退し始め、澤さんはプロ契約打ち切りを機に渡米。2003年に米国プロリーグが休止するまで4年間、欧米の選手と競う中で、自身の武器となる先を読む力、判断の早さを磨いた。
 帰国後、2004年のアテネ五輪予選に怪我をおして出場した澤さんの献身的なプレーは、チームメイトの士気を高め、二大会ぶりの出場権を獲得。代表に「なでしこジャパン」の愛称が誕生した。その後も自身の夢に向かって、ワールドカップや五輪に挑戦。ついに2011年のFIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会で、世界一になり、子どもの頃からの夢を実現させた。決勝戦の延長後半のコーナーキック。ボールはここに飛んで来るはず、信じて走り込んだ澤さんの足が起死回生の同点ゴールを生んだ。続くPK戦を制した日本は、宿敵米国を破り、世界一の偉業を成し遂げた。澤さんは得点王となり、MVPを獲得。そして同年のFIFA最優秀選手賞にアジア人としてはじめて選ばれた。ワールドカップ優勝や、翌年のロンドン五輪での銀メダルは、澤さんのリーダーシップが導いたと言っても過言ではない。澤選手にあこがれてサッカーを始め、苦しい時に澤選手の背中を見て頑張ったチームメイトと一緒につかんだ栄光だ。
 昨年の引退会見で、最高のサッカー人生だったと言い切った澤さんの顔は、晴れ晴れとしていた。今後は、サッカーの普及活動や、子どもたちに夢を与える仕事をしたいと、抱負も語った。人生のパートナーを得、新しい家族を迎える澤さんの、今後の活躍が期待されている。